ニートだった私が留学、海外就職を経て会社経営者になるまでのブログ

ワーキングホリデー、10~12カ月目 ~出会いと別れ、自分と向き合って見えたもの~

更新日:2016/04/26

当時のワーキングホリデーにセカンドはありませんでした。

やっと2005年の終わり頃になってセカンドが始まりましたが、ファームでの仕事なんて経験もなく、韓国人の友達に「セカンドの権利、お金で買えるよ?興味ある?」とも聞かれましたが、正直全く興味はありませんでした。
ファームに行くにはビザの期限もあと一ヶ月ちょっと。
時既に遅し。

それに加えて、このままワーキングホリデービザで滞在していても、生きているスキルや自信をつけることが私は難しいだろうと感じていたからでした。

「ホントこのあとどうしよう。また振り出しに逆戻りだなぁ。」

そんなタイミングで、一番仲の良かったワーホリ友達に誘われて計画していた、パースへの3週間ほどの旅行の時が来ました。
グループで集まることが多かったですが、そのうち二人がパースで生活したことがあり、とてもいい街だからまた戻ってから帰国する、といっていたこともあり、旅行に全く興味もありませんでしたが、折角の機会だから、ということでいざパースへ。

インド洋と太平洋を繋ぐ鉄道なので、インディアン・パシフィックと呼ばれる寝台列車に乗って3泊4日。
寝台といっても、私たちは一番安い席なので、普通の新幹線のような座席で3泊しました。笑
永遠と続く赤土と膝丈ほどの低木を眺めながら、3日目にはもはやデジャブとしか思えないほど同じ景色に気が狂いそうになりつつも、4日目に無事到着。

ありえないほど韓国人にモテる友人の特権にも助けられつつ市内観光、その後レンタカーを借りてあいのりしてくる友達を見つけて一週間ほど西オーストラリア州の西南部を回る旅にも出かけました。

自然の偉大さ、何より全てのスケール感。
サーフィンをしていたときに感じた自分の小ささとはまた違った感覚ではありますが、自分の目から見える、経験できることの小ささに落胆すると同時に、その広大さが逆に自分を温かく包んでくれているような、落ち着いた気持ちにもさせてくれました。

「また生き急ぎそうだった」

ヒヤッとした瞬間でした。
20代半ばだったとはいえ、日本での生活、思考の習慣はそんなに簡単には変わりません、というか、変われません。

「ゆっくり時間をかけよう。そのためにも、この環境でしばらくいたいな。」

日本から逃げるため、というところから、それもベースにありながらも、ここで学校では学べない何かを知りたい、それを将来の糧にしたい、と思うようになりました。
ケアンズから南下してシドニーに戻るプランだった友達とパースで分かれ、私はそそくさとシドニーへの帰路へ。
心底楽しかった旅行でしたが、久しぶりに予定が詰まった生活をしてやや疲れて(←贅沢すぎ。)それから一週間ほどはまた寝て起きてのゆったりライフスタイル。

実は語学学校のNavitasが終わったあとのこと。来たばかりの頃に、日本人の友達も作りたいと参加したエージェントさんのクリスマスパーティで2等が当たり、語学学校に4週間タダでいけることになって行っていました。笑
とはいえ、何と最初から入ったクラスが一番上のレベルで正直困惑。

「タダだし、まぁいいんじゃない」

そのくらいの気持ちで、学生ビザでもないのでテキトーに休みも挟んで通っていましたが、そこで同じクラスだった日本人が一人。
映画を観に行くが趣味ということも手伝って、それからほぼ毎週火曜日、シドニーの映画が安い日に二人でよく映画を観に行きました。
観終わってからは、シドニーのメイン通りGeorge StreetとLiverpool Streetの角にあるHungry Jacks(ハングリー・ジャックス、日本だとバーガー・キング)で映画のレビュー。

レビューといっても、映画の評価というより、映画のストーリーの確認。
“あの場面でこういう台詞を言っていたから、きっとこういうことだったんだ。だからエンディングでこうなってる。いや、でもそれだと主人公はこんな行動をしていたのは何故なんだろう。”
みたいなあてずっぽながら、何とか聞けた英語を元に手探りでストーリーを組み立てる作業。笑

DVDで字幕つけながら10本くらいは台詞を覚えたりもしましたが、やはり掛け捨てのお金を払って字幕なしの英語に挑戦するこのトレーニングは大いに私の英語力アップに貢献してくれました。
今だから言える話ですが、こっそり帰る振りしてもう一回戻って観たり、二人でランチ持参で乗り込んでみたり、高校生みたいな甘酸っぱい時間を過ごしていました。笑

そんな彼女が旅行に出て、戻ってくるのが11月末。
一緒にパースに出かけた親友の帰国を涙で見送り、実質私のワーホリ生活も終了。

ちょうど同じ日に彼女が旅行からシドニーに戻ってきて、また日本に行くまでの10日間。
それまでの人生で一番穏やかで、幸せを感じられた時間だったように思います。
朝起きて二人で朝食作って食べて、ビーチ沿いを散歩に出かけて疲れたら眺めの良さそうなベンチで一休み。
タバコ吸いながら他愛もない話を一生しながら、今度は座るのに疲れたからとまたビーチを散歩。
お気に入りのカフェでコーヒーを買って折り返し、日が暮れる前に夕食の準備をしようと買い物に出かける。
共通の友達を呼んで家でご飯を食べ、みんなで映画を観て、眠くなったら寝る。
そんな平凡で、飾りっ気ゼロの人生で、自分が幸せを感じられるなんて、日本にいるときの私だったら全く想像したこともありませんでした。

今考えたら、日本での私の理想の人生は差別と偏見の上に成り立っているような絵空事です。笑

そんな、自分の人生に新しい価値観をくれた彼女との生活を夢見ていたこと、ちょうどその頃周りにいた日本人の友達がほぼ全員、調理師か美容師さんだったこともあって、調理師という仕事に興味を持ち始めました。

「日本で大学は出たけど、何か自分にとって自信になるものにはならなかった。やっぱり手に職持っている人は強い。英語力云々じゃなくても、自分の作ったもので人を魅了できる。俺には手に職の道の方があってるかもしれない。おじいちゃんも靴職人だったし。」

日本に居た頃にはカフェに行くなんてことすらろくにしなかった私ですが、すっかりオーストラリアン・カフェの魅力にどっぷりハマって、カフェで働いてみたいと思うようになっていました。

「オトが本気なら、うちでとりあえずキッチンハンドでやってみるか?」

そう誘ってくれたのは、音楽イベントで歌わせていただいたときに一緒に参加していたシェフの方でした。
見た目もメッチャかっこよくて、歌も上手くて、料理も上手。

「俺もそんな大人になりたい」

料理への道に心を固めたときでした。
一応、通訳・翻訳コースの相談をしていたエージェントさんに、調理師の勉強したい旨を伝えたら、永住ビザ取りたいの?と一言。

「何にも経験ない僕でも取れるんですか?」

と半信半疑で聞いてみると、可能性は高そう。
永住ビザ取得にあたってのプロセスや、大まかな費用、なんでエージェントが無料で学校の申請代行や現地サポートが出来るのかなども、ざっくばらんに説明してくれました。

人材紹介・派遣がメインの事業だった会社で、私も日本にいたときにテレビCMでも見たことがあったくらいの規模の会社でした。
会社の規模もさることながら、コンサルタントの人が就職やビザ情報に強いのは留学開始後に何より助かると思い、そこに申請代行を依頼。
このときはまさか、3年後に自分がその会社に勤めることになるとは思いもしませんでした。


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